「厳しい練習」
「厳しい言葉」
野球を指導している上で厳しさは必要です。
「厳しい練習」から生まれてくる試合でのワクワクするような楽しさが
本当の野球の楽しさだと思っています。
何でもかんでも楽しいのであれば公園で遊ぶ野球と変わりがないことになってしまいますから。
公園で遊ぶだけなら厳しい練習もありませんから。
厳しい練習をする先に待っているもの・・
それが本当の「野球の楽しさ」です。
楽なものは楽しくないし本当に楽しいものに楽なものはない。
私は子供にこう話しています。
試合で打ったヒットの感触・試合で勝った喜び・・
そういう一瞬の喜びが忘れられずにまた厳しい練習に野球少年は涙し汗を流します。
その子供にそういう喜びを味わせたい・・
そうい想いから時には厳しさが必要になってくるときがあります。
指導者として・・
「厳しい練習」をする時があります。
親として・・
『厳しい言葉』を子供にかける時があります。
その子供たちに「厳しさ」を我々は指導者として・・
親としてどのように子どもに伝えるべきなのでしょうか?
エラーをした子がいる。
許せない自分がいる。
自分の自己満足で怒りで打っている100本ノックを打っても
子どもには伝わらないのです。
子供のためを思って打つ100本と怒りに任せている100本を
子供は心でわかっています。
大事なところで三振した我が子がいる。
親として自分が言わないから気がすまないからと
「なんであの時打てなかったの!」
と怒りに任せている親の声は子供には響かないのです。
指導者が行う「厳しい練習」も・・
親として言う「厳しい言葉」も・・
「敢えて」なのです。
『厳しい』という漢字の中には『敢えて』という漢字がきちんと入っています。
皆さんも『敢えて厳しい事を言うけど…』って言いませんか?
この『敢えて』は、誰のためか…
もちろん、子供の事を想っての『敢えて』でなければいけないのです。
この『敢えて』がないと・・
自分だけの感情だけで怒り怒ることで自分の欲求が満たされるだけです。
「俺の練習は厳しいぞ」
「ウチの子育ては厳しいです」
その厳しさの中に「敢えて」は入っているでしょうか?
子供のことを想わず・・
ただ自分の欲求を満たすためだけの練習や言葉であれば・・
それは「厳しさ」ではなくただの「自己満足」です。
漢字のように『厳しさの中に敢えて』という愛情があれば・・
それは、優しさになるのではないでしょうか?
一見真逆そうな『厳しさ』と『優しさ』は敢えての気持ちが入る事によって
似ている意味になる気がします。
~年中夢球~