引退した日本ハムファイターズの田中賢介選手。
その引退セレモニーには【家族】という言葉が賢介選手からたくさん出てきました。
その賢介選手のお兄様。
そのお兄様の姿に憧れ賢介選手は野球を始め…
そしてプロ野球の道へ進みました。
今回親交がある賢介選手のお兄様に賢介選手へのお手紙を書いていただきました。
私が9歳の時、賢介が誕生しました。
両親が共働きでしたので小学生の私は賢介の面倒をよく任されていました。
賢介が歩きだした頃には・・
私が毎日保育園へお迎えに行き歩いて帰宅。
土曜日は私が毎日、適当に作った棒ラーメンだったな・・
と今でも思い出します。
文句も言わず、おりこうな賢介でした。
しかし・・
私は周りの友達が楽しそうに遊んでいることが正直うらやましかったです。
ある日・・
母に『バスケットがやりたい』と言いました。
仲良しの友達に誘われたことがきっかけでしたが・・
半分は賢介の面倒から解されたかった気持ちもありました。
母はバスケットをすることを許してくれ全国大会出場も果たしました。
その後中学ではバスケットではなく軟式野球部に進みました。
3年間の実績もあり私は筑陽学園に特待生として進学。
そのころ賢介は小学校に入学。
小学校2年から私の影響で野球をやり始めました。
賢介の野球人生の始まりです。
先輩たちからたくさん可愛がっていただきどんどん上達していきました。
月曜日は練習が休みだった高校生の私とも練習。
普段はたくさんの新聞紙ボールを自宅で打ち込みをしていました。
私も部活が終わって帰宅してから夜中までバットを振っていると母から
『いい加減にしなさい』
とよく怒られていましたが・・
賢介も同じだったようです。
後の賢介のインタビューで・・
野球をしている私がかっこよく見えたこと。
甲子園に行けなかった私を見て・・
こんなにがんばっているのに行けない甲子園ってどんな所なんだろう?
と小学生ながらに思い・・
甲子園に絶対行きたい・・
とひそかに思っていたことを知りました。
足も速く肩も強くピッチャーをしていた賢介は中学生となり
硬式クラブチームに入団しました。
周りが田んぼという環境のグラウンドで・・
度々ネットを超えて場外へボールが出るようになりネットが補強され高くなっていきました。
当時を知る人からは『賢介ネット』と呼ばれています。
当時は親の送迎などもなく自宅から5キロの距離を毎回走っていました。
トレーニングだったのでしょう。
昔からストイックでした。
私は高校を卒業し社会人野球へ・・
そして私自身もプロ野球のテストを受けました。
最後の二人まで残りましたが落選。
賢介が高校生の頃です。
賢介は東福岡高校に進学し春夏甲子園出場。
高校卒業後の進路を悩んでいましたが・・
『兄がなれなかったから俺がプロに行く』
とプロ志願をしたそうです。
熊本県の山鹿球場でホームランを打った時・・
賢介はプロに行けるんじゃないかと私は思いました。
賢介は日本ハムファイターズでお世話になることになりました。
それからの野球人生は苦労の連続でした。
故障もありましたしメジャーへの挑戦。
食事のサポートは奥さんの千芳ちゃんの担当になり・・
頑固な賢介のために大変だったと思います。
子供が生まれ親となり・・
気付いたこと・気づかされたことはたくさんあると思います。
日本球界に復帰するときに一番最初に声を掛けてくださったのは日本ハムファイターズでした。
賢介も言っていましたが・・
縁もゆかりもない自分を温かく応援してくださった北海道の皆様には本当に感謝していると・・。
そしてこれからも北海道に住み続けるとのことですので・・
北海道に恩返しをしていくんだなと思っております。
最後の試合で見せた2本のヒット。
野球の神様がいるとしたら・・
通算1500安打に1本足りないのではなく・・
最後に2本も打たせてくれた。
1499本も打たせてくれた。
20年間楽しい時間をありがとう。
長い間、お疲れ様でした。
私は受け継いだ父の印刷会社を守り・・
これからも福岡から応援していこうと思います。
そして・・
スイッチONバッティングスクールで『野球って楽しい!』ということを広めていこうと思います。
田中俊之
家族・・
田中賢介選手にはたくさんの家族が応援してくれたのでしょう。
奥様・お子さん・お父様・お母様・そしてこの手紙を書いていただいたお兄様。
日本ハムという家族。
そして・・
北海道の皆さんという家族。
兄と弟は福岡と北海道という遠い所にいますが・・
家族の絆に距離は関係なく・・
ずっとずっと繋がっているはずです。
*取材に応じて頂いた賢介選手のお兄様である田中俊之様・・
今回はありがとうございました。
~年中夢球~